前回の続きになります。
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お花見はじまってますね。
近所の方も、いろんな国から来た人も、みんなニコニコ楽しそうでほっこりします。
西岸は台東区・浅草の街へ、東岸は墨田区・向島とスカイツリーの押上、その先は本所〜錦糸町方面へとつながっています。
1945年3月10日の猛烈な爆撃のさい、両岸で逃げ惑う人びとが「川の向こうへ行けば助かる」と、双方から言問橋へ向かったそうです。
しかしすでにどちらの地区も激しい炎、爆発に街がのまれているような状況でした。
みんな橋の上で進むことも戻ることもできず、そこへまた、頭上を飛ぶ戦闘機からびっしりと凶器が降り注ぎ、たくさんの人が焼き殺されてしまいました。
川へ落下したり飛びこむ人も多くいましたが、呼吸をしようと水面から顔を出した途端に熱風を吸い込んで亡くなるケースが多かったらしいのだと、吉原至近の老舗街中華に行ったときマスターが語っていました。あえて川へ向かわずに避難した人が生き残った、と。
1992年に橋の改修工事が行われましたが、両端の親柱は1928年の竣工当時のまま、いまも現役でがっしりした支えのようになっています。
そして、知ってしまうととてもつらく悲しいことですが…。
親柱が黒っぽくなっているのは、爆撃の火災の跡や、人の血や脂が黒く焦げついた跡なのだそうです。痛ましい過去をほんの少し可視化して、そっと伝えてくれているようにも見えます。
明治神宮表参道の交差点にある灯篭の根元の部分も、同様の跡が遺されています。
首都高を錦糸町インターで降りて吉原へ向かう途中に言問橋をのそのそ渡るのですが、色々とわかってからは、ちょっと泣いてしまいます…。
いったいなぜこういったジェノサイドが起きてしまったのか?というと、現状調べた限りでは
⚫︎戦時相手国(USA)の、当時の日本国内攻撃を指揮する担当者として、比較的非人道的な方針の人物が担ってしまっていた
⚫︎市街地に交じる軍事拠点を精密的に狙撃する技術がなく、まるごと焼き尽くすような作戦になってしまった
⚫︎USA軍が日本の木造家屋と人を焼きたくて仕方なかったらしい
と、かなり大雑把ではありますが、上記のような感じでした。引き続き知っていけたらと思っています。
いまも遠いところでは戦争が続いていて、人類の業として争いを無くすのは難しいのかなと感じています。軍事関連の職業についている方々の生活も維持されなくてはなりません。
しかし痛いことはやはり良くないので、少なくとも物理的な対人暴力・殺傷行為は無くす方向に舵を切ってもよいのではないかな…と強く思います。
鍵となるのは「戦場の無人化」とわたしは考えています。
現代ではさまざまな仕事が無人化されていて、軍事におけるAIの活用も始まってきていますね。
AIが人間を傷つけてしまうと何の意味もないのですけど、AI同士が戦うならばかなりベターな未来ではないでしょうか。
メタバースの軍事利用も望ましいのではないかと思います。専門外ゆえ現状多くは語れないのですが…。
仮想空間を「主戦場」とすることで人的被害がなくなり、大幅なコストダウン、リソースの節約と有効活用が期待できる、というメリットはありそうですね。
最後にわたし個人として思うこと、できそうなことをお伝えしますね。
わたしはこの3年ほど吉原へ通ってお世話になり、ずいぶん助けていただいて、良い記憶をたくさん重ねることができました。
出会った人、猫、かっぱ橋、かんのんさまとお稲荷のキツネ、街角の喫茶店、ハンバーグに街中華、築年数がすごそうな路地裏の建物、民家で謎の増殖を続けるアロエ…、
このような下町のあれこれがわたしは大好きになりました。
おだやかな場所を微力ながら守っていくために。自分の周りから、半径5mでも1mでもよいので少しでも平和にしよう、といまは決めています。
具体的には「目の前の向き合った相手を最大限尊重し大切にする」ということになります。
ごく当たり前のようですが、自分の過去を振り返ると実はできていない場面も多くて、案外意識していないと忘れてしまってました。
飲食サービスの業界で著名な、(株)HUGE 新川義弘代表がご本人のYouTubeチャンネルで仰っていたのですが、人に安心してもらう方法のひとつとして
「まっすぐに見据え、最高の笑顔で、抱きしめる」
これはほとんどの人が生まれてきた時にしてもらっていることだから、とのことでした。
幸いわたしは、これが心おきなくできる場所にいられて、良かったです。まぁやらせていただけるうちは、ですが…。
なにか気長に温かいものを手渡していけたらと思っております。
今回は明るいばかりではないテーマでしたが、見にきてくださり感謝です。
お会いできる日を楽しみにしています。