湯っこやのみなみさん。

吉原遊女ほのぼの見聞録

3月10日「東京都平和の日」によせて①

東北の田舎から出てきて吉原へ通うようになり、日々東京下町を駆けまわる中ではじめて知った歴史がありました。

センシティブな問題をはらみつつも忘れられてはいけないことのような気がしたので、少しずつお伝えしてみたいと思います。

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ふだんは夜の散歩が多いのですが、3月10日は日中時間をつくり、桜の咲きはじめた隅田公園言問橋周辺を歩いてみることにしました。

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空が高く澄んで、老若男女、国籍もさまざまな人が楽しそうに行き交い、微笑ましい春の日です。

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東京スカイツリーを目前に望む、隅田川にかかる言問橋(ことといはし)

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美しい響きの名前は、平安時代在原業平が詠んだ和歌が関係しているといわれています。

※他にも諸説有力なものがあるそうです

「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」

京都から遥か東へ旅してきたものの、残してきた恋人が気掛かりで、通りすがりの鳥(ユリカモメ)に尋ねているという歌とのことですが…。

ユリカモメ「えっ」

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東京の痛ましい過去について、昨年はじめて知り驚きと衝撃をうけた事柄があります。

78年前、敗戦の近づく首都東京はとりわけ激しい攻撃を受け、3月10日に最大規模の作戦が実行されたそうです。ゲル状のガソリンを詰めた凶器がほぼ隙間なく、市街地へ向け投下されました。

2〜3時間のあいだに10万人以上が爆発炎上により激しい苦痛を伴って殺され、15万人ほどがやはり強い痛みや大火傷、大怪我に苦しみました。

あまりにも短時間で、そしてあまりにもたくさんの人(おそらくいっしょに暮らしていた犬や猫や鳥も)が生きたまま焼かれてしまったということに、わたしは大きなショックを禁じ得ませんでした。

当時の警視庁カメラマンの石川光陽氏が被害状況を記録撮影し、戦後極秘に保存されていた写真も見ました。

たくさんの表情があったはずの人たちが白く冷たくなって無言のまま横たわり、また別の人たちは黒焦げのよくわからない塊のようになって、面影をすっかり消されてしまっていました。

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焼け跡に残された人たち、とくに保護者不在となったこどもさんは上野駅などでかろうじて雨風をしのぎ、小さな子が毎日数人ずつ、衰弱して死んでいくという状況が続いていたそうです。

誰にも言えないような局面を越えて、心と体に大きな傷を抱えたまま、長年負い目のように感じているかたも少なくないようです。本人はなにも悪くないはずなのにもかかわらず…。

それでも生きのびて、命をつないできた人びとは、あまり知られていないかもしれないけれど、とても大切な存在なのだと思います。

なお、軍人ではない民間人への戦後補償は現在も無いままです。

 

つづきは、次の記事に書きます。